ログイン「……真理」思わず名前が零れた。真理は申し訳なさそうに実花を見る。その隣には光也がいる。(どうして……)先ほどまではいつも通りだと思った光也が、今はどこか違って見えた。真剣な表情。迷いを断ち切ったような目。何かを決意した。そんな空気が光也を包んでいた。「実花ちゃん」京が実花の背を優しく押す。部屋の中に入るように言われているのは分かる。躊躇してしまう。(あ……)光也が後ろに下がる。招き入れていると分かる動きに抗えず、実花は部屋の中に入った。背中で聞いた扉の閉まる音。逃げ場を失った気がした。「実は彼女は――」「叔母さん」京の言葉を光也が静かに遮った。そして、真理の隣へ歩いていく。(東国さん……)実花の胸が締めつけられる。光也が真理の隣に立つ。自ら。何かを決意した表情で。もう、それだけで十分だった。今から何を告げられるのか。答えは一つしかない。光也は真理へ手を伸ばした。(やっぱり……)光也が真理を抱き寄せる光景など見たくない。けれど。(目が離せない……)実花の目の奥が熱くなる。そして痛いと感じた瞬間――。「……え?」ぐいっと音が聞こえてきそうな勢いで、光也が真理の開襟シャツの襟元を思い切り引き下ろした。真理は少し大きめのシャツを着ていた。シャツのボタンは飛ぶこともなく、そのまま真理の腹部近くまでずり落ちる。「えっ!?」実花は目を見開いた。「光也、あんた何やってんの!?」京が思わず叫ぶ。人の着ている服を無理やり押し下げる。そのよう
京はスマートフォンをバッグへしまうと、立ち上がった。「行きましょう」「どこにですか?」「ちょっと、ここでは話せないの」そう言ってテーブルを回り込み、実花の手をそっと握る。温かい手だった。「でも」京は真っ直ぐ実花を見つめる。「私を信じてついてきてほしい」その言葉には不思議と迷いがなかった。実花は小さく頷く。「……はい」店を出ると、京は近くの駐車場へ向かった。白いセダンの助手席へ案内され、実花は静かにシートベルトを締める。どこへ向かうのか。聞こうとは思わなかった。京が自分を騙す人ではない。それだけは分かっていた。車がゆっくりと走り始めた、そのとき。スマートフォンが震えた。【東国光也】画面に表示された名前を見て、実花の鼓動が少しだけ速くなる。「光也?」「はい」光也からのメッセージにあった通り、ホテル名と部屋番号を京に伝える。これから光也と会うかもしれないとは思っていた。しかし、実際にそうなると緊張してしまう。「話しておきたいことがあるの」実花は頷いて、静かに耳を傾けた。「光也のお父様――東国の当主にはね、本当に愛した女性がいたの」車窓の景色が流れていく。京は淡々と話し始めた。「彼女と結婚することはなかったわ。彼女には英国人の婚約者がいたから」京が肩を竦める。「東国の当主は別の女性と政略結婚したの。今の妻ね。本人が言うには、『東国家のために』『仕方がなく』だそうよ」愛していたわけではない。東国のため。仕方がなく。「言い訳のようですね」実花の言葉に京は笑う。「その通りよ。自分が浮気するための言い訳。それに乗っかる女
「東国さんが、好き……なんです」その言葉を口にした瞬間、これまで感情の蓋をしていた栓が抜けた気がした。ぽろり、と涙が頬を伝う。「あら、あらあら!?」京が慌ててハンカチを差し出した。「え、どうして泣くの!?」「私も……分からなくて」涙が次から次へと溢れてくることしか実花には分からなかった。こんな感情に任せて泣いた記憶がなくて、実花は戸惑う。一方で、京も完全に混乱していた。「え、待って?」「す、すみません……」涙声で謝られて、京は一層混乱する。謝らせたいわけではないのだ。「待ってって言ったのは混乱したからなの。だって、光也とは両想いじゃないの?」「……両想い」実花の目から零れる涙の量が増える。「両想いはいいことよ。今から祝杯をあげたいくらいいい気分なんだから」「でも……」実花は涙を拭う。「東国さんは、他に……」その一言で、京の表情が変わった。「光也、何したの?」低い声だった。実花の涙がびっくりして止まる。ひっくと喉の奥からしゃっくりが出た。「昔からあの子、本当に無神経だったのよ! 女の子には特にね!」何かを思い出したらしい。京は何かに怒っているようだ。「学生時代なんてね、告白しようとして呼び出そうとした女の子に“面倒だからそこで言え”って。あり得る?」「……東国さんなら、変じゃないかなって……」「そうなのよ、あの子らしいって言えば、あの子らしいのよ」でもね、と京は続ける。「本音と建前も理解しないのよ」「それは……」「ええ、そう。あの子らしいといえば、あの子らしいわよね」実花は頷く。「例えばね。『一回だけでいいから』って頼まれたら、本当に一回だけなのよ」「え……」
「今日はお時間を作っていただいて、ありがとうございます」待ち合わせたカフェで席に着くと、実花は深く頭を下げた。京は柔らかく笑う。「気にしないで。『会いたい』なんて可愛い子にお願いされて断る理由ないじゃない」「でも、急だったのに……」「大丈夫よ、無理なんてしていないから」そう言って紅茶を口に運ぶ。「それにしても、あの光也がこんな常識的で可愛い子と婚約するなんて」思わず頬が熱くなる。「京さんは……」東国家とは懇意にしていますよね。篠原真理のことを何か聞いていますか。そう言いかけた言葉が止まる。「光也さんの、叔母さんなんですよね」口にした瞬間、自分でも恥ずかしくなった。(何を聞いてるの……)それはすでに知っていること。東国のパーティーで光也からそう紹介されている。(話の切り出し方が分からなかったからって……)京は体を小さくする実花を見つめ、笑った。「光也があなたのことを困らせてるの?」実花は思わず顔を上げる。「図星みたいね」「い、いえ……その……」否定しようとして、言葉が続かなかった。京は苦笑する。「あの子ね、昔からそういう子なの」「昔から……?」「昔から、まるで、自分一人で生きてるみたいな子だった」京は懐かしそうに窓の外を眺めた。「誰かに頼ることもしない。甘えることもしない。人を遠ざけるわけじゃないけど、自分から近づくこともない」「……」「傍にいたのは航くらいかしら」実花は静かに耳を傾ける。「今思えば、大人の私
【航視点】「お前、実花ちゃんに何かした?」コーヒーを置きながらそう聞くと、光也は怪訝そうにこちらを見た。「何だ?」「何だじゃねぇよ」航は腕を組み、深く息を吐く。「実花ちゃん、最近様子がおかしいぞ」光也は眉を寄せた。「そんな気はしていたが、そういうこともあるだろう」「まあ、そうだがな」航の曖昧な返事に、光也の眉間にしわが寄る。「実花ちゃんの様子がおかしくなったのって、この前、ほら、例の彼女が会社に来て、実花ちゃんと会った日だぞ」「ああ」光也は納得したように頷く。「その件なら問題ない」「……は?」「実花には、今は言えないこともあると説明した。実花も納得している」航は数秒、言葉を失った。「……納得してる、じゃねぇよ!」思わず机を叩く。光也は少しだけ眉をひそめた。「何だ?」「何だじゃねえよ! お前、なにそれで納得してんだよ!」「……違うのか?」「違うに決まってんだろ!」航は頭を抱えた。(この男、本気で分かってねぇ……)「客観的に考えてみろ」指を一本立てる。「婚約者が、知らない女と社長室で二人きり」二本目。「お前は他人に虫けらほども興味を示さない男だ」「否定はしない……それが問題か?」「それは今回は問題視しない。問題は、そのお前が彼女には親切にしてることだ」光也が首を傾げる。「話をしていただけだぞ」「お前の場合、それが超親切に該当するんだよ!」航は盛大にツッコミを入れた。「実花ちゃんからしたら、不安になるに決まってるだろ」光也は腕を組み、静かに考え込む。「分かったか?」「……いまいち分からない」航は天井を仰いだ
真理と社長室で会ってから、一ヶ月経った。実花の胸には、まだ小さな棘が刺さったままだ。それでも日常は何も変わらない。学校へ行き、授業を受ける。光也とは火曜日のバイトで会う。光也は以前と何も変わらなかった。真理も変わらない。何度か学校に来て、来る前日に実花に連絡が来て、お昼休みに図書室で会う。穏やかに笑うことも。実花へ話しかけてくる声も同じだ。まるで、何事もなかったかのように進んでいる。だからだろう。実花は自分だけ置いていかれている感じがしていた。.「そういえば、この前の土曜日。東国さんと会ったんでしょう?」いつも通り図書室で会うと、真理にそう言われた。土曜日。確かに実花は光也に会わないかと誘われた。(でも……)「ううん。土曜日は用事があって」「そうだったんだ」真理との会話はそこで終わったけれど、実花の中にはモヤッとしたものが残った。(どうして土曜日に東国さんが私を誘うことを知っているの?)どこかで二人は会っていたことになる。そこで二人はどんな会話をしたのか。自分は二人の間でどういう存在なのか。(共通の知人、それとも……)お邪魔虫。実花は隣にいる真理を見る。視線に気づいたのか、真理がこちらを見て首を傾げる。その表情から、敵意とか嫌悪とかは感じない。実花は少しだけ安心した。(あのとき、「今は言えない」って言ったのは……)きっと、本当に事情があるだけなのだ。光也も、真理も、実花を傷つけようとしているわけではない。だから嘘を吐いたり隠したりせず、「今は言えない」と正直に伝えてくれた。「待っていてくれる」と信頼されていると思えば、嬉しくもある。けれど。そんな気持ちは長く続かな
あの夜は、ただ変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、痛みでふらつく頭を押さえながら実花は一人で寝ていた寝室からゆっくりと廊下へ出た。冷えた床の感触が足裏に伝わるたび、意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。声のする方へ向かったのは、意志というより反射に近かった。何が起きているのかを考える前に身体が勝手に動いていた。そして、すぐに分かった。何の声か。何の音か。理解してしまった瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。美鈴の甲高い声は快感を訴え、「もっと」と甘えるように揺れていた。それに応える恒一の唸り声は理性を削ぎ落とされた獣のようで、実花の知る“夫”という存在
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ
「全く……美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、まるで最初から用意されていた結論を読み上げるかのように自然だった。迷いも逡巡もなく、恒一の口から滑り落ちる中に実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる―――困り方すら整えられていた。自分がどう振る舞えば最も『恒一に大事にされる存在』として成立するか、それを計算した振る舞いだった。「今夜はこの前置いていった服をとりあえず着ればいい。明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一は即座にそう言い切った。その声音には、『こうするのが当然』というような親密さが滲んでい







